インタビュー 卓球を通じて開かれた世界への扉

2015年03月30日

「強くなりたい」。ただその気持ちが自分を高めてきた。2014年、第52回世界卓球選手権の団体戦に出場し、銅メダルに輝いた松平健太さんは、次なる目標である2016年のリオデジャネイロ五輪への出場、メダル獲得に向けて、“強くなる”ための努力を惜しまない。卓球を通じて開かれた世界への扉。各地で触れ合う選手とのコミュニケーション。卓球を始めたきっかけから、ドイツ留学時代の経験、そして、世界に挑む選手としての今後の意気込みを伺った。

強くなりたい、その一心で

  松平さんが世界にその名をとどろかせたのは、2006年のことだった。中学3年生で出場した世界ジュニア選手権で、男子シングルス優勝に輝いたのだ。世界 大会での日本人選手のシングルス優勝は、実に27年ぶりの快挙。世界中の注目を浴びた。そして翌年には、日本代表として世界選手権に初出場。また、 2009年の横浜大会ではベスト16入りを果たす。当時世界ランキング20位前後だったチェコのエース、ピーター・コルベルに4-0で完勝という快挙を遂 げ、“20年に1人の逸材”“ワルドナーの再来”と評された。ワルドナーとは松平さんも目標とする卓球選手の一人で、卓球界の神と言われるバルセロナ五輪 の金メダリスト、ヤン・オベ・ワルドナー選手のことだ。その後も躍進は続く。2009年の世界選手権では、北京五輪金メダリストの中国・馬琳選手を相手に 最終ゲームまで追い込む熱戦を繰り広げ、「近いうちに中国の強敵になる」とまで言わしめた。それほどまでに、松平さんの活躍は華々しく、将来を期待される 選手だった。

努力は必ず実を結ぶ

 だが、必ずしも、選手生活は順風満帆ではなかった。2010年の全日本選手権での初戦敗退以後、松平さんにはスランプという大きな壁が立ちふさがる。目標としていたロンドン五輪の切符を手にすることもできなかった。

 

  悔しかった。だが「その当時は、素直に自分の置かれた現状を受け入れ、今はこういう時期なのだと思い、じっと我慢していました」と、淡々と振り返る。ス ポーツ選手である以上、スランプがあるのは当たり前。練習をいくら積んでも思うように結果がついてこないこともある。誰もが通らなければならない道なの だ。そう思い、前向きに捉えていたという。

 

 どうしたら強くなれるのか。どうしたら勝てるのか。悩み抜いた先に見えたのは「もっと考えながら練習をすること」だった。そして、フットワークを軽くするために筋力をつけ、スタミナや集中力を高めることも必要だと考えた。

 

 「トレーニングの大切さを理解し、力を入れて取り組むようになりました。現在は、ウェイトトレーニング、ジャンプ、ダッシュなどを取り入れています」

 

 筋力をつけたことで、身体の軸が一定に保てるようになった。トレーニングを重ねるうちに、試合でも結果がついてきた。栄養面にも気を配り、バランスの取れた食事をするようになった。努力は必ず実を結ぶ。そうして、復活への兆しがようやく見えてきた。

世界を目指す仲間とともに

  松平さんの卓球との出会いは5歳のとき。卓球の国体選手だった父が経営するスポーツ用品店の隣には、卓球場があった。父の指導のもとで、既に卓球を始めて いた2人の兄とともにラケットを握り、技術を磨いた。卓球を始めて数カ月にして試合に出場し、全国大会の予選を3位で勝ち抜き、全国大会へ。

 

 「あの頃は、訳も分からず試合に出ていました。試合の1週間前になると、父の指導にも熱が入り厳しくなったものです。練習は好きではありませんでしたが、とにかく試合が楽しくて、勝てばうれしいし、負ければ悔しい。そんな気持ちで試合に出ていましたね」

 

  そして中学1年の9月、親元を離れて青森山田学園中等部へ。全国レベルの選手が集まるスポーツの名門校だ。1日6~7時間という長時間にわたる練習は、と ても厳しいものだった。ついていくだけでも精一杯。だが、日本や世界のトップを目指す仲間と一緒に練習をすることによって、卓球に対する意識が徐々に変 わっていった。

英語はしっかり勉強しておくべきだった

  高校2年の夏には、2年間のドイツ留学へ旅立った。青森山田で臨時コーチを務めていたキュウ・ケンシン氏の指導を仰ぐためだった。そして、キュウ・ケンシ ン氏が監督を務めるブンデスリーガ1部の名門チーム・フリッケンハオゼンに所属し、世界最高峰リーグでのプレーも経験した。

 

  「ドイツのチームでは、卓球に対する他の選手と自分の意識の違いに刺激を受けました。自分はただ強くなりたい、その一心で練習や試合に臨んでいましたが、 他の選手たちは、卓球で生計を立てていることもあって、プロ意識が高く、勝敗へのこだわりが強いのです。ドイツで過ごす以上はそうした意識もしっかり身に 付けようと練習に励みました」

 

 監督は多少の日本語ができる のでコミュニケーションは取りやすかったが、ほかの選手とは共通言語が英語だった。寮ではルームメイトとなったスウェーデン人選手と寝食を共にした。最初 は伝えたいことがあっても、思うように伝えられないもどかしさを感じた。「『卓球』というもう一つの共通言語はありましたが、やはり本当に伝えたいことが あったときや、深くコミュニケーションを取りたいと思ったときは、『英語をもっとやっていればよかった』と強く思いました。ですから皆さんもぜひ今のうち から英語を少しでも好きになって、勉強することをお薦めします」

 

 毎日、午前9時30分から12時まで、休憩を挟むことなく練習は続く。そして、昼食を取った後、午後3時30分から6時まで再び練習をする。日本では何度か休憩を挟みながら練習をするスタイルだったので、ドイツに渡ったばかりの頃は、練習方法の違いに戸惑った。

 

 「世界の選手と渡り合うには、スタミナも集中力も必要なのだということを、身をもって実感しました。半年が過ぎたあたりから、ようやくその練習方法にも慣れ、ペースがつかめるようになったと思います」

 

  世界のトップレベルの選手たちと共に過ごした日々。松平さんはプロ意識を持って卓球と向き合うことの大切さを学んだ。自分が強くなることだけを考えるので はなく、勝負にこだわることも選手には必要なのだ。この経験が松平さんを選手としてひとつ上のステージへと押し上げた。

活躍するたびに感謝の気持ちが強くなる

  もし、卓球と出会っていなかったら…。もちろんそんなことは考えられないほど、卓球は自分の生活の一部になっている。卓球をしていたからこそ、たくさんの 人と出会い、世界を舞台に活躍することができた。卓球があるから、いろいろな人とコミュニケーションを取ることができた。卓球に対する感謝の気持ちが日に 日に強くなる。

 

 「試合に出場し、観客の注目を浴びながら応援されると、気持ちが奮い立たされます。そこで勝つことができれば、さらに気分は盛り上がります。応援は大きな力になります。応援に後押しされて、普段の練習では出すことのできない力を出せたことがよくあるんです」

 

 次の目標は、2016年のリオデジャネイロ五輪だ。まずは、日本代表の座を勝ち取るために、これからの試合でより良い成績を残さなければならない。目標に向かって、松平さんはいま、練習に励む日々を過ごしている。

 

 強くなり、活躍するたびに、世間からの注目が高まる。中でも、地元・石川県七尾市の人々の期待は厚い。

 

  「自分を育ててくれた家族をはじめ、地元のみなさんには感謝しています。五輪に出場してメダルを獲得することが、地元への恩返しになると思います。常に活 躍し続けられる選手でいられるように、これからも努力していきます。そして、誰にも真似のできないプレーができる選手になることを目指したいと思います」

 

 静かに淡々と語りながらも、胸の内には秘められた熱い闘志が見え隠れする。自分を支える多くの人々の応援を力に変えて、松平さんは世界に挑んでいる。

Profile

松平 健太

1991 年4月11日生まれ。石川県出身。身長169cm。血液型B型。5歳から卓球を始め、中学3年時には日本人初世界ジュニア卓球選手権男子シングルスで優 勝。2009年からは3年連続で世界選手権代表に選ばれ、2013年世界選手権パリ大会では初のベスト8入りを果たした。

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