私は神奈川県に生まれ育ち、ごく普通の公立の小、中、高で学びました。高校2年の冬、そろそろ高校卒業後の将来を考えなくてはいけない時期を迎え、どこの大学に行くか、と具体的に検討したとき、オーストラリアが視野に入ってきました。
理由は、私の場合は少し特殊で、オーストラリアと縁があったことが大きいと思います。というのは、叔母(父の妹)がオーストラリア人と結婚、シドニーに住んでいるからです。
オーストラリアから叔母やいとこが来日することがあったので、オーストラリアには親しみがありました。いとこは母親が日本人で、日本語の教育もしっかり受けているため、日本語もある程度できますが、こちらは英語ができない。だから話せるようになりたいという思いがありました。
また、自営業をしている両親は自由に育ててくれましたので、日本の教育への執着もあまりありませんでした。「自由に決めていいから、自分で決めたことはやり通せ」。そう父親に言われました。私は三人兄妹の真ん中ですが、3才上の兄も、2才年下の妹も、既にオーストラリアに行っていました。
とは言え、迷いがなかったわけではありません。大学生活自体は、日本の方が楽しそうだと感じていました。でもそれだけのために4年間を費やしたくはありません。それより、もっと世界観を広げられる海外の大学へ進みたい、将来は英語が使える仕事をしたい、それなら縁のあるオーストラリアだ、というように考えました。
親の意向で小学校の5、6年生から英語塾に通いましたが、それ以外、特別なことはしていません。ただ中学、高校と英語の成績は良かったですね。高校では部活のバレーボールに打ち込み、あまり勉強をしていませんでした。部活が一区切りついてから英語の勉強に力を入れるようになりました。
オーストラリアの大学への留学を決意した後も、勉強は独学でした。そのときは海外で使える実用フレーズ集のようなものですとか、英語の音声を繰り返し聞くような教材を使いました。とにかく「実用的な会話ができなくては(オーストラリアで)生活できない」という思いが強くあったからです。
オーストラリアのシドニーへ渡り、まず英語学校に通うところから始めました。大学に入るにはIELTSで一定のスコアを求められるので、それに見合う英語力をつけるためです。
ところが入学してみると英語がなかなか聞き取れない。高校までの英語の成績は良く、日本でも自分なりに訓練してきたつもりだったので、これは非常にショックでした。
オーストラリアに渡って半年後、IELTSを受けましたが、大学入学ラインには到達できませんでした。
その後二度目にチャレンジをした際も、大学合格にはぎりぎりの点数で、入学の申請を出したものの許可が出ず、大学へ入学するためのファンデーションスタディ・コースを薦められました。
それでまず入ったのが、SIBT(Sydney Institute of Business & Technology)というビジネスカレッジです。ここはファンデーションスタディ・コースを担う学校の一つで、特にマッコーリー大学への予備学校的な役割を果たしています。なので学生のほとんどがマッコーリー大学を目指していました(わずかですがニューサウスウェールズ大学に進学する人もいました)。
SIBTで獲得した単位はマッコーリー大学の単位として認定され、必要な単位を満たして卒業すれば、マッコーリー大学の2年に編入できるしくみです。ですからSIBTを選んだ時点で、大学はマッコーリー大学に進もうと決めました。
ところがここでも私は少し足踏みをしてしまいました。というのは、本来私は日本で言う文系だったのですが、この時、割と数学ができるような気がしており、アカウンティング(会計)を専攻したのです。マッコーリー大学がアカウンティングではオーストラリア有数の大学ですから、変な野心がでました。しかし実際に専攻すると、ついていけない。単位は片っ端から落とすなど、これはだめだ、と。それで半年もせずに、専攻をコミュニケーションに切り替えました。
その結果、単位が取れるようになり、そこでようやくマッコーリー大学の2年に編入できました。シドニーに来て、1年強が過ぎていました。
SIBTでは英語も鍛えられました。英語のプレゼンテーション、ライティング、記述テストなどもありました。IELTSをあらためて受ける必要はなく(要確認)、必要な単位を取れば大学入学に必要な英語力が認められます。しかしこの単位を取ることが大変なんです。
SIBTでしっかり英語力を磨かれたおかげで、大学に入ってからは、一単位も落とさずに卒業しました。私が入学したのは、メディア・人文科学という学部で、本を読み、さまざまなテーマで3,000〜5,000ワードほどの小論文を書く授業が主体でした。日本語でもこんな量は読まないというくらい大量の本を読みました。
また、印象的だった科目にパフォーマンス・スタディがあります。ここでは演劇を創作して実際に演じるといった課題がありました。こうした授業は英語で台本を書くことが必要になるので、英語が母国語ではない学生にとっては大変です。
幸い、ペアワーク、グループワークが多いので、私はもっぱら企画やアイデアを出し、オーストラリア人学生に正確な英文に直してもらう、といった協力体制で乗り切ることができました。大変でしたが、今振り返ると楽しかったことしか覚えていません。
オーストラリアの大学は、2学期制です。学期と学期の間の12月から1月は2カ月ほどの長い休暇になります。こちらの学生は休暇中は徹底的にエンジョイする。しかし大学が始まると図書館にこもり切りで猛勉強する、といった勉強方法がしっかり身についています。
大学の友人たちと。
パーティーを思い切り楽しむのがオーストラリアの文化。 この日も本格的なコスプレで楽しんでいます。
(音楽フェスティバル)での一枚。
この催しでは、地元のミュージシャンから
有名バンド、DJなども参加して一日中音楽が、
演奏されアトラクションも行われます。
学生は各寮でそろいのTシャツを作るなど、
さまざまな楽しみ方をします。
平日と週末もそうで、平日は猛勉強、週末は目いっぱい楽しむ。このようなオンとオフのはっきりとした切り替えには感心しました。私はと言えば、読まなければならない本が多く、休日も夜遅くまで本を読んでいたこともあって、なかなか切り替え方を身につけることはできませんでした。
渡豪して最初の3カ月ほどは叔母の家にホームステイしていましたが、その後、兄、妹と三人で家を借りました。こうすることで経済的にも無駄がなく、両親も安心すると思ったからです。
当時、私はSIBTに通い、妹は高校へ、兄は大学へ行っていました。ぶつかることもありましたが、兄妹がいたからがんばれたということもあったと思います。
シドニーはとても住みやすい街です。気候が良いことはもちろん、ライフスタイルが魅力的です。オーストラリア社会はプライベート最優先、多くの仕事は5時に終わりますし、土、日はビーチでのピクニックなどでのんびり過ごします。きれいなビーチが都心のすぐ近くにあるのは魅力的です。マンリービーチという有名なビーチがありますが、ここへはフェリーでサキュラー・キー(シドニー市内)から30分で行けます。
学業以外では、私の場合、高校時代に打ち込んだバレーボールが役立ちました。大学チームに入りましたが、クラブチームからも誘いが来て、両方でプレーしていました。マッコーリー大学のバレーボールチームはかなり強くて、ニューサウスウェールズ州代表として、全豪の大学大会に出場したほど。多民族国家らしく、私のチームでオーストラリア人は一人だけ。残りはアメリカ人、ドイツ人、マレーシア人、私という留学生主体のメンバーでした。バレーボールのチームメイトと親しくなると、またそこから友人の輪が広がって友達が増えていきました。高校でバレーボールに打ち込んでいて良かったと思いました。
バレーボール部男子、女子の両チーム。
オーストラリアでは年に一度、
さまざまなスポーツ種目の全国大学対抗の
大会が行われます。
このときはブリスベンで開催され、
熱戦を繰り広げました。
またホームパーティーが盛んな国なので、週末、友人からパーティーに誘われ、そこでまた友人ができるということもよくありました。
マッコーリー大学の学校長(中央)、
学部長(左)とともに。
以前から外国の大学での卒業式に
憧れがありました。
ガウンを着て卒業式に出席、学校長から
卒業証書を授与されたときは本当にうれしく、
がんばって勉強してきて良かったと
心から思いました。
無事にマッコーリー大学を卒業した後は就職ということになりますが、これがまた簡単にはいきませんでした。在学中は卒業することで精一杯、就職について考える余裕はなかったというのが正直なところです。
オーストラリアで知り合った日本人学生で日本企業から内定をもらって喜んでいた人が、最終的に単位が足りなくて卒業できず、内定取り消しになったのを目の当たりにしたことも、卒業最優先という気持ちに拍車をかけました。しかし、私の就職スケジュールは通常とはかなり違ってしまいました。当初は12月に卒業して4月から働く予定でしたが、専攻を変更したため、半年、後ろにずれ、6月いっぱいまで学生で、9月から働くという形になりました。
就職活動に使える時間があまりないので焦りはありましたが、あまり深刻には考えませんでした。「オーストラリアでもなんとかなったのだから、日本でもなんとかなるだろう」という気持ちもあったからです。これも一種の「オーストラリア効果」かも知れません。
広告の仕事をしたかったのですが、大手の広告代理店はすでに募集を締め切っていたので、それに近い仕事を探しました。そこで就職関係の広報・広告を扱っている企業に応募、入社することができました。
2年ほど勤務し、その後縁あって、現在勤務する広告代理店に転職しました。このときもたまたまリーマン・ショックの時期に当たってしまい、採用が一時的に中止になり、再開されてからようやく採用になりました。入社して6年目、主に外資系企業を顧客に営業をしています。
広告は人と人の間に立って気持ちや思いを伝える仕事です。留学で、さまざまな民族、さまざまな文化を持つ人たちと交流した経験はそこに活きていると思います。また、顧客企業に対しては英語を使う機会もあります。
日本はいろいろな点で恵まれていて、便利で不自由のない生活をしている方が多いと思います。でも、それに違和感を覚えたり、これまでの人生とは違った経験をしてみたいと思う方もいるでしょう。
そういう方にとって海外留学は刺激的で、すばらしい経験になります。
ただ、そこには英語力という壁があります。
その壁を破るには、トライして少々うまくいかなくてもすぐに諦めるのではなく、粘り強く努力することが大切。そうすれば得られるものは本当に大きいと思います。